4月24日に東京を発ち、バンコクで飛行機を降りて入国し、日本のミャンマー大使館でヴィザ取得のときに『宗教・政治活動は一切しない。ミャンマー国内での撮影・メモは一切とらない』との誓約書にサインを取られたので、ミャンマー入国時にゴタゴタするのは嫌だと考え、バンコクの空港で待ってくれて居た、マイミクMさんにPC・日本の携帯・タイの携帯などを預け、その足で出国してミャンマーのヤンゴンへ。
日本を発つ前いろんな人たちに『黄衣姿で入国するのは問題があるので止めた方が良い』と忠告されていたので、作務衣にでも着替えて入国しようか?と迷ったが『小細工をするのは俺の性にはあわぬ、正々堂々と黄衣で正面突破しよう、もし入国を拒否されたらそれはそれで仕方ない』と、腹を括り黄衣のまま入管カウンターへ、“案ずるより生むが易し”なんの問題も無しに無事入国。
ヤンゴンの宿泊予定先に着いたのはミャンマー時間の夜八時半過ぎ。
ユックリ休む間もなく、ヤンゴン在住10年のマイミクMさんが都合してくれた車に、Mさんの部下のミャンマー人青年3人と同乗して、25日の早朝一路目指すメッティーラへ炎天下12時間半のドライブ、その夜の宿泊先に着いたのは夜の9時。
明けて26日朝一番に日本語学校のあるお寺へ。
過ってこの学校で日本語を学んでいた若い比丘に通訳を頼み、昨年お亡くなられた住職に代わり、新しくマンダレーから赴任されてこられた新住職に面会。
住職にご挨拶のあとお願いして、この学校で学んでいた女性のお父さんで、この県管内の軍幹部に電話していただき、住職・この軍幹部・俺の三人に通訳の比丘を交え、日本語学校の今後を話しあうことに。
『政府の上層部の方針で、新首都周辺の県では政府の正式許可を取っていない、学校や私塾の類は一切禁止することになり、私の娘も長年勉強させて頂いたのに残念だが、この学校は閉鎖させて貰うことになった。今後は民家などで有志が集まり、家庭教師的な規模で日本語を教え・学ぶことには、軍・政府としては一切口を出さない』と軍幹部。
『貴師達のご好意で寺の境内に建てて頂いた、この校舎を貴師が許して下さるなら、メッティーラ管内の若い比丘が、仏教を学ぶための学校として使用させて頂きたい』と住職。
俺に意見など言う余地もなく『ここで日本語と英語を教えていた、先生の代表者とできればこの場で話させて頂き、彼らが今後どうしたいのか?を聞きたい』と俺。
それで、日本語を教えていた女性と、英語を教えていた男性の二人を電話で呼んで頂き、住職・軍幹部・俺・元先生二人の、五人で今後の方針を話しあい。
結果『近くの小さな貸し店舗のような家を、英語教師4人と日本語教師1人で金を出しあって借りて、希望者に英語と日本語を教え、軍もこれを黙認する』と言う事に。
三人いた日本語教師の内、一人は義母の商売を手伝い、一人はドバイへ働きに行くということで、日本語教師を続けるのは、日本語検定一級合格者の女性ス・ス・マー一人だけ。
日本を出るときに皆様から『旅費の足しにでもしてください』と頂いた、ありがたいお布施の一部をス・ス・マーに『日本の皆様からの寄付だ、新しい教室の備品を整えるのに使ってくれ』と渡し、軍幹部に見送られメッティーラを後に、また炎天下をヤンゴンまで12時間半のドライブ。
“俺ももう歳だな〜!悪路・炎天下での往復25時間の車の旅は俺にはもう無理だ”と、己の弱った体力をつくづく実感した旅だった。
ミャンマーに着いた日から、日中は乾期らしく肌を焦がすような、カンカン照りの太陽なのに、毎夜、季節外れの激しいスコール、俺がミャンマーを出たあと襲ったサイクロンの前触れだったのだろうか。
サイクロンで大きな被害を受けられた、ミャンマーの町・村の復興が、一日も早いことを心から祈ります。
〜ミャンマーの人々が幸せでありますように〜
〜続くカンボジヤ孤児院報告〜
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